実習2019 日間賀島(4)

<屋号の書いた蛸壺>


観光MAPによると、漁港には屋号が書いた蛸壺がたくさん積んである、と書いてある。
「屋号付きの」蛸壺は、写真におさめたい。
ところが、蛸壺はそこらじゅうにあったけれども、なにか黒く書いてある程度で模様なのかマークなのか屋号なのかよくわからない。

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<漁協・フェリー乗り場・岡忠水産>


腹が減った。
団体客らしき10人くらいの男たちがガヤガヤ言いながら、フェリー乗り場の方へ歩いていく。
半袖Tシャツに白いパンツの人が多い。
歩いている先には何か食べるところがあるかもしれない。
漁港を見ている限りまったく食堂などは期待できないけれど、男たちにまざるように、漁協とフェリー乗り場がある方へ歩きはじめる。
漁港のはずれに「○○造船所」がある。
佐藤隆夫(1968)「愛知県日間賀島の家族制度慣行の実態について」では、西の里・東の里の本家筋の名前が紹介されている。
○○はそのひとつだそうだ。

近くでは、母親とその子どもらしい二人の女の子が自転車に乗る練習をしている。
造船所のとなりに、「漁業協同組合事務所」。
土曜だから、当然、閉まっている。

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正社員募集のポスターを眺める。
漁協のむき出しになっている地層の美しさに惹かれていると、自転車の練習が背後を通り過ぎていく。
自転車の後ろをばつぼつ歩く。
フェリー乗り場の切符売り場が想像以上に小さすぎて、一瞬、通り過ぎてしまう。

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正午を告げるサイレンが鳴る。
昼休みになったらしく、「漁協の貯蔵冷蔵保管庫」の前の「岡忠水産」から頭にビニールの衛生帽をかぶった女性たちが、6・7名出てきた。
自転車の練習していた母子とビニール帽の女性たちの話し声で、そのあたりだけが賑わう。
その横を通りながら、「岡忠水産」のしらす工場は土曜も動いているのか、と思う。
岡忠水産は、タックメイトーズが訪問する「(有)丸幸」の隣。

 

<ブランコと岬>


フェリー乗り場の湾も過ぎ、”久淵道下”までいくと、”カフェ”という看板がいくつかある。
島ではじめて見たGS北河石油店もカフェを併営していた。
しかし、”タコ…”のスイーツ系ばかりなので、寄るのは止める。
さきほどの男性の団体は、「民宿 徳川(?)」傍のしらす工場が設営するカフェに入っている。
GSを過ぎ、岩場の美しい海沿いを歩くと観光客が増えてくる。
海岸の先に「ハイジのブランコ」のある岬が見える。
ブランコのある岬を海側からでなく、道路脇の草むらから入ってみると、ブランコの前に何かを天日干ししそうな骨組みがあった。

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骨組みを抜けると、ブランコの順番待ちのカップルの列が並んでいる。
岬を海側へ降りる。
この岬の周辺の海は、島でいちばんきれいに感じた。

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ブランコを砂浜ビーチに降りたところでは、BBQをやっている団体がいる。
イベントやっているかのかと思い、なにか食べ物にありつけるか一瞬期待したが、イベントでもなければ、島の人でもなさそうだった。
地図で確認すると「日間賀島海鮮バーベキュー」とあり、BBQ専用会場なのかもしれない。

 

<東の里の神社・仏閣>


岬のすぐ近くの日間賀神社に入る。
小さな神社である。

西の里に比べて、東の里は、神社・仏閣もそのままに残っている様子がある。
神社・寺院は、西の里、東の里と集落をカバーするものに分かれているのだろうか。

西港では狭い土地に家々が集まる先端に、防波堤のように宿と土産物の店が並ぶ。
東港は家々が集まる漁村部分のはずれ、西港との間にホテル地帯がある印象である。
文献によると、漁村としてみると東の漁村の方がが発達していたというものがある。
寺院や神社の立ち並びからすると、たしかに東側が古い文化が充実しているように感じる。
東港から岬までの狭い範囲に、1つの神社と3つの寺院が近い距離に集まっている。

 

<日間賀神社:東の里>


長心寺に比べると、あまり整備されていないので、逆にほっとする。
由緒などはしっかりと看板に記載されている。
神社の入り口の狛犬昭和15年のもので、静岡県の大石さんという方が寄贈している。
また、社務所の前には「梵天」という儀式の飾りつけが披露されている。
梵天」は1月15日の儀式で神が降りてくるという、神迎えの行事の際の飾りつけと紹介されている。
氏子代表の新頭人の家に設置するそうである。

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<若者宿と通婚>


お気に入りは、「東 青年會」とだけ掘られた石塔。
明治45年の寄贈とある。
前掲の佐藤論文は、若者宿など、島の家族と若者の生活慣行をまとめていた。
佐藤論文では、調査当時、すでに青年会の活動は過去のもののように書かれていた。
論文では、若者組と婚姻の縁組から、通婚圏、私生児やもらい子の問題まで紹介されていた。

古い習慣を研究する文献は、いくつかあり、それらは西の里と東の里の交流や婚姻関係について紹介している。
それらの文献によると、西と東は島民の性格が若干異なり、西と東の婚姻関係の薄さについて指摘するものがある。
調査によると、西と東よりも、日間賀島篠島の婚姻の方が多いという数値を出すものもある。
そういう意味では、交流が薄いと言えるのかもしれない。
瀬川清子日間賀島民俗誌では、西と東の若者組が、女性の奪い合いで喧嘩になったという事例が紹介されている。
近親婚も多かった(佐藤)という記述などと合わせて考えると、交流が薄いと表現されても、婚姻は女性を巡る対立を生み出すなど、島のなかでの微妙な問題であったのだろうと思われる。

・・・にしても、お腹が減った。

ビーチ前に1軒だけ海の家のような店がある。
「島のごはんやさん 海」。
やはり空いていない。
もう少し歩いたら食べる店があるだろうか。
そう思いながら歩き始めると、海岸沿いを反対周りに歩いてきたらしいNさんと出会う。
この先の東港に食べるところがあるらしい。
希望をいだき歩きはじめる。


続く