実習2019 日間賀島(5)

…承前

 

食事場所を求めて歩きはじめるが、すぐに寺の屋根に気づく。
海岸沿いに食事場所がありそうだけれど、屋根の見える住宅の並ぶ坂を上がりはじめる。
安楽寺があった
海から引き揚げられた仏像を大ダコが守っていたという、章魚阿弥陀如来があるという。

章魚アミダニョライ…

タコという漢字に、蛸以外もあることを知って勉強になると思いながらも、お腹が減って仕方がないので、食べてからか、明日もう一回寄ろうとぼんやり考える。
でも次の日は、雨で寒すぎて再訪するのを忘れる。


<東港と寺社>

安楽寺から、大光院鯖大師堂へ回ることにする。
このフィールドノーツを書きながら、安楽寺は見たけれども周囲を歩いていないことを思い出す。
安楽寺の上側は「寺ノ上」、大光院から鯖大師へ続く道の先は「社口前」で、東の里は寺院・神社と地域の成り立ちがシンプルに現れている。
このあたりの古いものがそのまま残っていそうな道を歩いていないことに、ノートを書きながら気づく。

西の里に比べて、東の里は、神社・仏閣もそのままに残っている様子がある。
西港では狭い土地に家々が集まるその前衛に、防波堤のように宿と土産物の店が並ぶ。
東港は家々が集まる漁村部分のはずれ、西港との間にあたる位置にホテル地帯がある印象である。
文献によると、漁村としてみると東の漁村の方が発達していたという。
地図上では、東港から岬までの狭い範囲に、1つの神社と3つの寺院が近い距離に集まっていた。
実際に歩くと、家々の並びからみても、東側は古い時代を感じさせる。

 

<魚養山 大光院真言宗豊山派)の新四国巡礼>


大光院は知多四国八十八か所霊場の37番の霊場
知多四国八十八か所は、四国の霊場巡礼に範をとった「新四国霊場」のひとつである。

信仰として人気のある四国の霊場巡りを模した新四国霊場は、日本にはいくつもあるという。
知多は福岡県篠粟八十八所、香川県小豆島八十八所と並ぶ3大新四国霊場のひとつと言われているそうである。
開基は1823(文政7)年とされる。

大光院は、新四国霊場のひとつであり島めぐりの観光客の立ち寄り先でもありため、ネット上にたくさんの記録が出てくる。
あるブログでは、この寺院は長く無住で、昭和にやってきた現住職が中興の祖と聞いた、と記している。
どこで聞いた話なのだろうか。

 

寺院の門前には、長屋の縁側のような土産屋さんが目の前にある。
縁側のような腰掛風にお土産がならぶ。
その奥にはなぜかミシンが見える。
後ろに広げている縫物は何なのかわからなかった。

 

土産屋からは、寺院の敷地に立つ少年のような石像が見える。
少年の像なのだろうか。

 

<関大師講の石鏃>

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ハンチング帽に、ニッカポッカのズボン、ななめがけの小さなポシェットの姿が少年に見える。
"少年像"の服装は、国民服のようにも思える。
ちらりと見た感じでは、戦時中か戦後すぐの服装にみえる。
近づいてみると、石像の顔はふくぶくとした中年男性の顔のようにも見える。

 

ななめ掛けした襷のようなものに「関大師講」と彫ってある。
大師講の大師は、四国巡礼の信仰の元となる弘法大師空海)を意味する。
講は、その信仰を支える宗教団体。

 

少年のようなおじさん顔の石像の横に、「顕彰誌」という石板があり、関大師講の創設者を讃えている。
昭和55年に岐阜県関市の大師講中が、関大師講の大塚卯三郎さんを讃えて建立したという。

 

大師の「ご遺徳」に信仰の篤い大塚氏は、昭和23年に関大師講を創立する。
四国霊場・本四国霊場秩父坂東各霊場での布教活動に専心した。
四国霊場の巡拝において、岐阜県中濃地区では随一の巡拝団体となったそうだ。
昭和52年4月には、新四国霊場の巡拝満50年を記念に、各札所に金一封を志納している。
この大塚氏は、昭和54年1月には惜しくも亡くなられた。
大師講員一同は、大塚氏の死を悼み、新四国霊場随一の景勝を誇る日間賀島37番霊場に氏を祀ることになった。
大塚氏の威霊には、どうぞ巡拝者の海の安全をお守りいただきたい

、とある。

 

<参拝の二人>

大光院本堂前では、母子にように見える二人が、線香を焚き、経を上げて、参拝をしていた。
中年の男性と高齢の女性。
お遍路の服装には見えない。
普段着のようだけど参拝の儀式は本格的である。
写真を撮影するために二人の周囲をウロウロしていても、気にせずに参拝が執り行われる。