「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」

 

タイトルのメインとサブを入れ替えた方がわかりやすいのでは?と思った。
と言うか、「万国博覧会」をなんでタイトルに入れないのか、全部見て思った。
カッコよさげなタイトルだけど、中身がピンとこない。
先輩がFBで紹介されるまで、僕も気付いていなかった。

内容はとても充実している。
博覧会の展開に見る帝国主義の変容が「人間の展示」を巡って解説されている。

万国博覧会の開催は、開催国の政治的思惑を超えて、世界は一つ の観念を喚起させ、いろんな立場の人に具体的な世界を知らしめることになった。

万国博覧会は、帝国の世界での覇権を示す国威掲揚の意図が込められていた。
国威掲揚は 次第に自国産業の振興の意味が加わり、植民地での開催による国家意識の統合の意図も見られるようになる。

エスニック・ヴィレッジ」という地域の生活を再現する展示法の発明で、博覧会主催の宗主国の国民は、自国に居ながらにして世界を体験できるようになった。
自国に居ながら小世界旅行が楽しめる娯楽性が高められ、非西欧社会への関心や憧れを大衆レベルにまで裾野を広げた。

しかし、実際に旅行をしていたのは博覧会参加のために渡欧した”展示される側”の人間たちであった。
展示される側・見られる側は、西洋文明という異文化を体験すると同時に、博覧会会場にて、さまざまな文化と直接的に触れ合った。

ところで「日本」の生活は、エスニックなコンテンツとしてとても人気を博していた。
例えば世界の人類を紹介するポスターでは10数種の人種を紹介しているが、西欧人男性からはじまる紹介の3番目に日本人が紹介されている。
アジアの中ではもっとも早い。
紹介される日本人は日本髪の女性の絵になっており、日本人の紹介だけが女性である。

人間の展示は、各地の文化だけでなく、「フリークス」を見世物とする差別的なまなざしを伴う。
人間ではなく珍品のように好奇の目で見られることに、日本人は嫌悪を感じた。
渋沢栄一はまるで陶器や磁器のように眺められたと嫌悪感を表明した。

しかし、日本もまた、アイヌ琉球・生審(台湾人)を好奇なるものとして、帝国の覇権を誇示するかのように展示始める。
生審での刑の習慣を”首狩族”と野蛮なものとして好奇の目を向けて示す。
その僅か前に行われていた日の本での習慣を忘れたかのように。

展示は、これらの帝国主義をめぐる人間と世界の捉え方が、膨大な博覧会の記事・ポスター・絵葉書などから読み取られている。

見る展示、読む展示、考える展示に非常に充実している。

https://kyoto-ex.jp/shows/2021s-masashi-kohara/

 

実習2019 日間賀島(6) 四国巡礼:補陀洛浄土と大師信仰

四国霊場…とあっても、四国巡礼をめぐる宗教習俗について、あまり知識がない。
四国巡礼という信仰と習俗について、勉強してみる。

 

<捕陀落浄土と四国巡礼>


四国巡礼は、観音の捕陀落(ふだらく)浄土へ渡る遍路信仰に、大師信仰が混合して成立したといわれている。
捕陀落とは、『華厳経』などに登場する観音の降り立つ霊場である。
(インド)南洋にある捕陀落山とされている。

 

華厳経は、大乗仏教の成立時の主要な経典である。
紀元前に、さまざまな経が集積されて成立してきたものと言われている。

本経は、大乗仏教の空の世界観をその完成された形で詳説するものであるが、その根本は、自己および人類の現状を包含する世界を、それが慈悲に基づく他者に対する利他の働きかけ(行(ぎょう))である限りにおいての、限りなく広大で美しい種々の荘厳(しょうごん)(飾り)の総体、すなわち華厳の仏毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(「輝きわたるもの」の意)の法身(ほっしん)とみなす点にある。そして、世界の空とは、この広大で美しい仏の世界が、実はそれを自らの理想として信解する一人一人の人間の、その理想へ自己を実践的に投入しようという決意(願(がん))と、その実行(行(ぎょう))によって幻のごとくに顕現し、かつ、その実践の永遠の持続によって維持される、といういわゆる法界縁起の思想にほかならない。

 

 

……まあ、なんかわかったようで、よくわからなくなってきたので、次の機会にまた掘り下げることにして、ここらあたりでやめる。


ともかく、観音信仰は大乗仏教の展開とともにアジアに広がった。。
日本では、浄土信仰の広まりとともに、阿弥陀如来の隣に座す観音が知られるようになる。
熊野や日光が日本の捕陀落にたとえられるようになり、信仰の対象となった。

 

補陀落の浄土への信仰は、熊野灘足摺岬から捕陀落を目指す、捕陀落渡海という捨身行も生み出した。
浄土信仰が盛んな中世には、行としての渡海の記録が確認されるようになる(「熊野年代記」)。
行者は、渡海船で沖合に乗り出す。
古くは108の石を体に巻き付けて帰還を阻止する過酷な行であったらしい。
江戸期には住職の水葬儀礼に変質した例もあるという。
「熊野年代記」によると那智勝浦での行は、868年から1722年の間に20回も行われたという。

……いずれにしても、南洋の捕陀落浄土へ救済へ乗り出していく遍路の行が、四国巡礼の前身であるという。

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(全部読んでないけど、文献)
根井浄(2008)『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) 、吉川弘文館
根井浄(2010)『補陀落渡海史』、 法蔵館
川村湊(2003)『補陀落―観音信仰への旅』、 作品社
神野富一(2010)『補陀洛信仰の研究』、 山喜房佛書林
神野富一『捕陀落渡海略史』
日本経済新聞、2018/5/9 17:00、

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<大師信仰と四国巡礼>


四国巡礼の信仰を基礎づけるもうひとつの民間信仰に、大師信仰がある。
大師信仰は、醍醐天皇より弘法大師諡号を送られた空海の入定信仰からはじまる。
921年、東寺長者の観賢は、弘法大師諡号を告げに高野山を訪問した。
「大師」という呼び名は、もともとは仏の尊称であった。
この時代、「大師」は亡くなった高僧へ朝廷が送る諡号として使われている。
観賢は、大師の諡号を届けた際に、62歳(832年没)で旅立ったはずの空海高野山で禅定する姿に出会ったというのである。

亡くなったはずの空海が入定留身していたエピソードは、高野聖の救済と社会事業に積極的だった空海のイメージに融合され、民間信仰として広まる。
空海には、杖を突き湧き水を起こした奇蹟や、大師講や厄除けなどの民間信仰が知られている
大師信仰は、江戸時代になると大師の修行跡をご詠歌を唱えつつ巡る四国遍路へと融合されていく。

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五来重(1975)『増補 高野聖』、角川書店
日野西真定・編(1988)『弘法大師信仰』、雄山閣

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弘法大師と鯖と四国巡礼>


鯖大師のエピソードは、弘法大師の高僧伝説を起源とする。
鯖大師の総本山である鯖大師本坊八坂寺徳島県)の縁起が、鯖大師のはじまりといわれる。
鯖大師本坊のHPでは以下のようなエピソードが紹介されている。

四国を巡る弘法大師は、ある坂道で一休みした折り、行基菩薩の声を聞く。
その坂に塩鯖の荷を引く馬子が通りかかる。
大師は、苦しそうな馬を休めることを提案し、塩鯖の施しをいただけないか馬子にたずねる。
馬子は邪険に断るが、苦しそうな馬を見て、大師は歌を詠む。
大さかや、八坂さか中、鯖一つ、大師にくれで、馬の腹や(病)む
直後に、馬は横倒れになり、腹が膨れだす。
おそれた馬子は、大師に塩鯖をさしだす。
大師は馬子に水を持ってくるように言う。
大師が加持を施した水を、馬に与え、ふたたび大師が歌を詠むと馬が元気をとりもどす。
差し出された塩鯖も、大師が加持を施して海にはなすと、元の鯖にもどる。
馬子は、この出来事をきっかけに大師の仏弟子となる。

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全国の鯖大師は、鯖大師本坊のエピソードに支えられている。
疲れ果てた旅の僧が、塩漬けの鯖の荷を曳く馬子に施しをお願いするが、罵られ、馬子に拒否される。
そこで僧が呪歌を唱えると、馬の腹が痛みだす。
馬子は、僧に鯖を渡す。
僧は再び呪歌を唱えると、馬が元気をとりもどす。

 

高野山金剛峯寺のHPでは、弘法大師と四国巡礼の縁起をめぐって、愛媛県荏原の衛門三郎との出会いを紹介している
強欲な衛門三郎は、再三に渡って喜捨を乞う薄汚れた修行僧を、口汚くののしり、鉄鉢を取り上げて叩き割ってしまう。
修行僧はそれ以降姿を見せなくなる。
その後、衛門三郎の8人の子供たちは次々に不幸に会い、亡くなってしまう事態が続く。
衛門三郎は、後に、喜捨を乞うた修行僧は四国巡礼の修行を行う空海であることを知るようになる。
子供たちの不幸は、自分に対する天罰と悟った衛門三郎は、大師へのお詫びから、人々へ財産を喜捨するようになり、大師の後を慕し、四国の巡拝をはじめるのである。

こうした四国巡礼が八十八か所に設定されるのは、江戸期の頃の話であるという。
当初、はじめられたころは、順番も数も明確ではなかった。
八坂寺は巡礼順では、四国霊場の番外札所となっている。
番外札所とは巡礼に正式に組み込まれた寺院ではないが、巡礼者が必ず立ち寄る寺院である。
八坂寺は四国巡礼の休息の地として発展してきた。

実習2019 日間賀島(5)

…承前

 

食事場所を求めて歩きはじめるが、すぐに寺の屋根に気づく。
海岸沿いに食事場所がありそうだけれど、屋根の見える住宅の並ぶ坂を上がりはじめる。
安楽寺があった
海から引き揚げられた仏像を大ダコが守っていたという、章魚阿弥陀如来があるという。

章魚アミダニョライ…

タコという漢字に、蛸以外もあることを知って勉強になると思いながらも、お腹が減って仕方がないので、食べてからか、明日もう一回寄ろうとぼんやり考える。
でも次の日は、雨で寒すぎて再訪するのを忘れる。


<東港と寺社>

安楽寺から、大光院鯖大師堂へ回ることにする。
このフィールドノーツを書きながら、安楽寺は見たけれども周囲を歩いていないことを思い出す。
安楽寺の上側は「寺ノ上」、大光院から鯖大師へ続く道の先は「社口前」で、東の里は寺院・神社と地域の成り立ちがシンプルに現れている。
このあたりの古いものがそのまま残っていそうな道を歩いていないことに、ノートを書きながら気づく。

西の里に比べて、東の里は、神社・仏閣もそのままに残っている様子がある。
西港では狭い土地に家々が集まるその前衛に、防波堤のように宿と土産物の店が並ぶ。
東港は家々が集まる漁村部分のはずれ、西港との間にあたる位置にホテル地帯がある印象である。
文献によると、漁村としてみると東の漁村の方が発達していたという。
地図上では、東港から岬までの狭い範囲に、1つの神社と3つの寺院が近い距離に集まっていた。
実際に歩くと、家々の並びからみても、東側は古い時代を感じさせる。

 

<魚養山 大光院真言宗豊山派)の新四国巡礼>


大光院は知多四国八十八か所霊場の37番の霊場
知多四国八十八か所は、四国の霊場巡礼に範をとった「新四国霊場」のひとつである。

信仰として人気のある四国の霊場巡りを模した新四国霊場は、日本にはいくつもあるという。
知多は福岡県篠粟八十八所、香川県小豆島八十八所と並ぶ3大新四国霊場のひとつと言われているそうである。
開基は1823(文政7)年とされる。

大光院は、新四国霊場のひとつであり島めぐりの観光客の立ち寄り先でもありため、ネット上にたくさんの記録が出てくる。
あるブログでは、この寺院は長く無住で、昭和にやってきた現住職が中興の祖と聞いた、と記している。
どこで聞いた話なのだろうか。

 

寺院の門前には、長屋の縁側のような土産屋さんが目の前にある。
縁側のような腰掛風にお土産がならぶ。
その奥にはなぜかミシンが見える。
後ろに広げている縫物は何なのかわからなかった。

 

土産屋からは、寺院の敷地に立つ少年のような石像が見える。
少年の像なのだろうか。

 

<関大師講の石鏃>

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ハンチング帽に、ニッカポッカのズボン、ななめがけの小さなポシェットの姿が少年に見える。
"少年像"の服装は、国民服のようにも思える。
ちらりと見た感じでは、戦時中か戦後すぐの服装にみえる。
近づいてみると、石像の顔はふくぶくとした中年男性の顔のようにも見える。

 

ななめ掛けした襷のようなものに「関大師講」と彫ってある。
大師講の大師は、四国巡礼の信仰の元となる弘法大師空海)を意味する。
講は、その信仰を支える宗教団体。

 

少年のようなおじさん顔の石像の横に、「顕彰誌」という石板があり、関大師講の創設者を讃えている。
昭和55年に岐阜県関市の大師講中が、関大師講の大塚卯三郎さんを讃えて建立したという。

 

大師の「ご遺徳」に信仰の篤い大塚氏は、昭和23年に関大師講を創立する。
四国霊場・本四国霊場秩父坂東各霊場での布教活動に専心した。
四国霊場の巡拝において、岐阜県中濃地区では随一の巡拝団体となったそうだ。
昭和52年4月には、新四国霊場の巡拝満50年を記念に、各札所に金一封を志納している。
この大塚氏は、昭和54年1月には惜しくも亡くなられた。
大師講員一同は、大塚氏の死を悼み、新四国霊場随一の景勝を誇る日間賀島37番霊場に氏を祀ることになった。
大塚氏の威霊には、どうぞ巡拝者の海の安全をお守りいただきたい

、とある。

 

<参拝の二人>

大光院本堂前では、母子にように見える二人が、線香を焚き、経を上げて、参拝をしていた。
中年の男性と高齢の女性。
お遍路の服装には見えない。
普段着のようだけど参拝の儀式は本格的である。
写真を撮影するために二人の周囲をウロウロしていても、気にせずに参拝が執り行われる。