実習2019 日間賀島(6) 四国巡礼:補陀洛浄土と大師信仰

四国霊場…とあっても、四国巡礼をめぐる宗教習俗について、あまり知識がない。
四国巡礼という信仰と習俗について、勉強してみる。

 

<捕陀落浄土と四国巡礼>


四国巡礼は、観音の捕陀落(ふだらく)浄土へ渡る遍路信仰に、大師信仰が混合して成立したといわれている。
捕陀落とは、『華厳経』などに登場する観音の降り立つ霊場である。
(インド)南洋にある捕陀落山とされている。

 

華厳経は、大乗仏教の成立時の主要な経典である。
紀元前に、さまざまな経が集積されて成立してきたものと言われている。

本経は、大乗仏教の空の世界観をその完成された形で詳説するものであるが、その根本は、自己および人類の現状を包含する世界を、それが慈悲に基づく他者に対する利他の働きかけ(行(ぎょう))である限りにおいての、限りなく広大で美しい種々の荘厳(しょうごん)(飾り)の総体、すなわち華厳の仏毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(「輝きわたるもの」の意)の法身(ほっしん)とみなす点にある。そして、世界の空とは、この広大で美しい仏の世界が、実はそれを自らの理想として信解する一人一人の人間の、その理想へ自己を実践的に投入しようという決意(願(がん))と、その実行(行(ぎょう))によって幻のごとくに顕現し、かつ、その実践の永遠の持続によって維持される、といういわゆる法界縁起の思想にほかならない。

 

 

……まあ、なんかわかったようで、よくわからなくなってきたので、次の機会にまた掘り下げることにして、ここらあたりでやめる。


ともかく、観音信仰は大乗仏教の展開とともにアジアに広がった。。
日本では、浄土信仰の広まりとともに、阿弥陀如来の隣に座す観音が知られるようになる。
熊野や日光が日本の捕陀落にたとえられるようになり、信仰の対象となった。

 

補陀落の浄土への信仰は、熊野灘足摺岬から捕陀落を目指す、捕陀落渡海という捨身行も生み出した。
浄土信仰が盛んな中世には、行としての渡海の記録が確認されるようになる(「熊野年代記」)。
行者は、渡海船で沖合に乗り出す。
古くは108の石を体に巻き付けて帰還を阻止する過酷な行であったらしい。
江戸期には住職の水葬儀礼に変質した例もあるという。
「熊野年代記」によると那智勝浦での行は、868年から1722年の間に20回も行われたという。

……いずれにしても、南洋の捕陀落浄土へ救済へ乗り出していく遍路の行が、四国巡礼の前身であるという。

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(全部読んでないけど、文献)
根井浄(2008)『観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー) 、吉川弘文館
根井浄(2010)『補陀落渡海史』、 法蔵館
川村湊(2003)『補陀落―観音信仰への旅』、 作品社
神野富一(2010)『補陀洛信仰の研究』、 山喜房佛書林
神野富一『捕陀落渡海略史』
日本経済新聞、2018/5/9 17:00、

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<大師信仰と四国巡礼>


四国巡礼の信仰を基礎づけるもうひとつの民間信仰に、大師信仰がある。
大師信仰は、醍醐天皇より弘法大師諡号を送られた空海の入定信仰からはじまる。
921年、東寺長者の観賢は、弘法大師諡号を告げに高野山を訪問した。
「大師」という呼び名は、もともとは仏の尊称であった。
この時代、「大師」は亡くなった高僧へ朝廷が送る諡号として使われている。
観賢は、大師の諡号を届けた際に、62歳(832年没)で旅立ったはずの空海高野山で禅定する姿に出会ったというのである。

亡くなったはずの空海が入定留身していたエピソードは、高野聖の救済と社会事業に積極的だった空海のイメージに融合され、民間信仰として広まる。
空海には、杖を突き湧き水を起こした奇蹟や、大師講や厄除けなどの民間信仰が知られている
大師信仰は、江戸時代になると大師の修行跡をご詠歌を唱えつつ巡る四国遍路へと融合されていく。

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五来重(1975)『増補 高野聖』、角川書店
日野西真定・編(1988)『弘法大師信仰』、雄山閣

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弘法大師と鯖と四国巡礼>


鯖大師のエピソードは、弘法大師の高僧伝説を起源とする。
鯖大師の総本山である鯖大師本坊八坂寺徳島県)の縁起が、鯖大師のはじまりといわれる。
鯖大師本坊のHPでは以下のようなエピソードが紹介されている。

四国を巡る弘法大師は、ある坂道で一休みした折り、行基菩薩の声を聞く。
その坂に塩鯖の荷を引く馬子が通りかかる。
大師は、苦しそうな馬を休めることを提案し、塩鯖の施しをいただけないか馬子にたずねる。
馬子は邪険に断るが、苦しそうな馬を見て、大師は歌を詠む。
大さかや、八坂さか中、鯖一つ、大師にくれで、馬の腹や(病)む
直後に、馬は横倒れになり、腹が膨れだす。
おそれた馬子は、大師に塩鯖をさしだす。
大師は馬子に水を持ってくるように言う。
大師が加持を施した水を、馬に与え、ふたたび大師が歌を詠むと馬が元気をとりもどす。
差し出された塩鯖も、大師が加持を施して海にはなすと、元の鯖にもどる。
馬子は、この出来事をきっかけに大師の仏弟子となる。

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全国の鯖大師は、鯖大師本坊のエピソードに支えられている。
疲れ果てた旅の僧が、塩漬けの鯖の荷を曳く馬子に施しをお願いするが、罵られ、馬子に拒否される。
そこで僧が呪歌を唱えると、馬の腹が痛みだす。
馬子は、僧に鯖を渡す。
僧は再び呪歌を唱えると、馬が元気をとりもどす。

 

高野山金剛峯寺のHPでは、弘法大師と四国巡礼の縁起をめぐって、愛媛県荏原の衛門三郎との出会いを紹介している
強欲な衛門三郎は、再三に渡って喜捨を乞う薄汚れた修行僧を、口汚くののしり、鉄鉢を取り上げて叩き割ってしまう。
修行僧はそれ以降姿を見せなくなる。
その後、衛門三郎の8人の子供たちは次々に不幸に会い、亡くなってしまう事態が続く。
衛門三郎は、後に、喜捨を乞うた修行僧は四国巡礼の修行を行う空海であることを知るようになる。
子供たちの不幸は、自分に対する天罰と悟った衛門三郎は、大師へのお詫びから、人々へ財産を喜捨するようになり、大師の後を慕し、四国の巡拝をはじめるのである。

こうした四国巡礼が八十八か所に設定されるのは、江戸期の頃の話であるという。
当初、はじめられたころは、順番も数も明確ではなかった。
八坂寺は巡礼順では、四国霊場の番外札所となっている。
番外札所とは巡礼に正式に組み込まれた寺院ではないが、巡礼者が必ず立ち寄る寺院である。
八坂寺は四国巡礼の休息の地として発展してきた。